RJD作品解説〜演出編〜

こんにちは演出担当のsolaです。

今回は「ロミオとジュリエット=断罪」の演出や演技についてお話していきますね。

ロミジュリは若い美男美女の悲劇というイメージが強いわりに、詳しいストーリーはあまり知られていないという印象がありました。

出来上がってきた上演台本を読むと、ストーリー(物語)をしっかり見せていきたいという劇作家の意思を感じました。

例えばロミオとジュリエットの恋愛を控えめにしたり、当時民衆を大いに楽しませたであろう“乳母役”を撤廃したりして、より素直にドラマを楽しめるような構成になっていたのです。

そこで、より明確に意図を打ち出すためにロミオとジュリエットには【愛】が無かったという解釈を選択しました。

いわゆる純愛ではなく、嫉妬や執着または勘違いといったもので形作られる関係性で行こうと考えました。

その本来の役目はロザラインとベンヴォーリオに託し、彼らが本作のロミジュリを体現する役どころに任命したのです。

結果的にロミオとジュリエットは昭和の、ロザラインとベンヴォーリオは今の大学生の恋愛観のような感じになりました( *´︶`*)

ロザラインという役は原作には登場しないロミオの最初の恋の相手なのですが、「=断罪」ではメインとして登場します。

過去の上演史によると冒頭に登場させたりする演出もあったようですが、最後まで居るというのは初めてのアレンジではないでしょうか。

さて、舞台美術は赤絨毯と裸電球のみとしましたが、これは俳優の演技をより際立たせるために採択しました。

400年前は舞台装置や照明が乏しく、朝や夜、場所などを説明するためにセリフに書き込まれていました。

現代ではそうした演出効果が上がり、説明するセリフは嫌われる傾向にありますが、それゆえ身体や音の豊かさなどが失われているのも事実です。

私は古典を現代で上演するにあたり、忠実に再現したり、奇抜で挑戦的な演出を行うわけではなく、受け継がれてきたその良さをちょっとだけお借りして、私たちの生活に活かせればと考えています。

“調和”ということなのですが、それは単に合わせるということではありません。

演劇的な調和とは、逆方向に引っ張り合っている状態や、正面から激しく衝突し合っている状態、“拮抗している状況”を指すのだと考えています。

量子力学で粒子を衝突させる装置のようなものが舞台なのだと思っています。

具体的には。

まず俳優に物語通りに演じてもらい、次に真逆の解釈で演じてもらうということをしました。

数学には解が複数ある時がありますよね。

「大丈夫」という言葉にも<必要>と<不要>の2通りの意味があったりします。

戯曲にも当てはまり、一般的な読み方と筋は通るけど正解じゃないんじゃないかみたいな読み方が出来たりします。

それを同時に演じ続けるということを幾人かの俳優に試してもらいました。

それによってセリフを感情的に表現することに囚われず、かつ内面では常に何か別のことを内包している状態を作ることが出来ました。

それは俳優(自我)と役が常に身体に共存しつつ、メタファーについて考えながら生きるという現象を引き起こします。

簡単に言うと、なんかよく分からないけど目が離せなくて凄い。みたいな印象を与えることが出来ます(^_^;)

この演技を使うことで、演劇を見慣れていない方には素直な物語として見え、見慣れている方にはメタ的(別の物語)な内容として映る、重複する構造になります。

また、俳優が自ら発したセリフを自身の耳で聴き、気づくことで毎回新鮮な発見に満ちた演技も出来ているようでした。

同じ空間にいる観客が、同じ演目をまったく違う見方で観れて、時間差によって感じ方も変わるという« グラフィカル・ディレイ»とでも言うべき舞台芸術の形が仕上がったのではないでしょうか。

また、シェイクスピアの当時の上演ではすべての役を男性が演じていたとようなので、今回は女性に男性を演じてもらいました。

ちょっとした挑戦といえばそうかもしれません。

まだまだ語っていたいところですが、キリがないのでこのあたりで。

次回作もご期待下されば。

それでは〜(*´︶`*)ノ

「ロミオとジュリエット=断罪」公演特設サイト

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